叶岳

■叶岳

叶岳

叶ヶ嶽神社

 霊峰叶ヶ嶽341m、願いが叶うと言われている。JR今宿駅に神社の名所案内が目を引く。風光絶佳とある。叶ヶ嶽宮前バス停から白い鳥居の並ぶ参道を抜けて登ること約40分、10合目の石段の上が叶ヶ嶽の山頂で、まわりを見渡すと北は紺青の海に広がる能古島・志賀島・玄海島等の島々。そして弧状白砂の汀線に青松を描く風土のゆかしさは、今宿人の心の琴線に触れる。

・叶ヶ嶽神社の起こり

 古文書に拠ると

 「この山、往昔、山の名を天狗山と申しけるが、神功皇后三韓征伐のみぎり、この所に御心願あらせ給ひしに、御心叶ひけるとて山の名を変えて叶ヶ嶽と名づけ給ふ」

 「この山、怡土郡と早良郡の境は峯をもって分つ。山上に地蔵堂あり。怡土郡上の原村に属せり。昔、この山上に大石あり。

 上の原村、吉住因幡と云者、愛宕神の本地勝軍地蔵を山上に建てんとせしに、大石故、のけ難しくて、その上に堂を建てたり。其の後、火災出来、堂焼け、石も焼かれて谷に落つ。其の址にまた堂を建てて、石仏を安置せり。

 天正年中、高祖の城主、原田了栄、この堂を改造し、田地二段余、寄付せらる。今も上の原村に地蔵田という字あり。

 黒田忠文公、寛永八年に改作し給ふ。因幡八世の孫、今も上の原にあり、この堂を守る」

・吉住因幡守と上の原との結びつき

1.元寇(1274年文永の役、1281年弘安の役)の際、折からの暴風雨(後の人、これを神風と言う)により、敵船は殆ど沈没し、二度に渡る襲来も失敗に終わる。

2.鎌倉幕府は第三次の襲来に備えて異国警固番役を強化し、北条の御家人が続々と北九州の任地に集結した。その中に吉住飛騨守中継が居た。清和源氏の流れをくむ剛勇の関東武者であった。主命を帯びて居館を上の原村に構え、日夜、今宿一帯の海上警備に当たる。(1299年)。

3.しかし元(蒙古)の襲来はなく、百年にして鎌倉幕府は滅亡し、世は室町時代となり足利三代将軍義満の全盛時代となる。この頃、上の原に土着していた吉住家は高祖城主原田種賢に属して義満に従い、数々の合戦で大功を立てた。その人こそ吉住因幡守忠親である。

・吉住因幡守と地蔵の結びつき

 元来、地蔵信仰とは印度より中国を経て伝来し、平安朝の頃、まず貴族社会で盛んとなり、特に冥途に行って地獄の「閻魔大王」の裁きを受け、過酷な苦しみに遭う死者を救うのが地蔵とされた。

 やがて中世も後半となると、か弱い子供を救護するという観念も定着して来るが、同時に武士の間では戦乱に生き抜くための守り神として性格が重視され、尊崇を集めるに至る。

 この事は印度、即ち本地の地蔵の魔人的な面が我が国に伝えられると「勝軍地蔵」の名で呼ばれ、不動明王、毘沙門天とともに中世武士は挙げてその威を借りて武運を祈るという風潮にまで進展する。

 また愛宕神とは愛宕信仰を意味するものであり、その基本をなすものは、神仏の処遇を一体感に求めたものである。

 平安朝においてはこれを「本地垂迹説」と称し、神々の元は仏で衆生を救済するために神の姿となって現れた(垂迹)ものと説き、鎌倉時代になるとその反対に神が元で仏が末であるという「神本仏迹説」さえも出てくる。

 何れにせよ、伝来の仏教信仰と我が国古来の神祇信仰、両者の調和を目指すことに他ならない。このような神仏習合、仏教の日本化を早くから示したのが「愛宕信仰」である。

 将軍義満に従って大功の武将であった吉住因幡守は心の優しい信仰の人でもあったので将軍義満が京都は北山に勝軍地蔵堂を建立したのにならい、愛宕権現より勝軍地蔵の分霊を叶ヶ嶽に勧請し奉ったものである。

 時代は下って慶応4年、神仏離令発令にも拘らず、叶ヶ嶽は地蔵を祀りながら神社名で通っている。風土記拾遺には「一説に鳥居あれば神功皇后の社なるべし」とあるが愛宕信仰の伝統を引き継ぐもの、神仏混淆の名残りである。

 その後、文明年間、因幡守直政は火災で焼けたお堂を再建し、天正年間、高祖城主原田隆種(了栄)が仏堂を改造、更に黒田忠文公の改作、文化年間には怡土、志摩、早良三郡による再興など、藩主、家臣一門の尊崇が近世から現代にかけて庶民勢力の台頭とともに一般化し、あらゆる願望が信仰への道に美化することは観念形態として当然の成り行きであったのではないかと思われる。なお、現在、吉住(吉積)家は因幡守15世の孫に当たる方が健在でおられる。

*[参考文献]

筑前国続風土記、筑前国続風土記捨遺、糸島郡誌、叶ヶ嶽古今謂書、叶ヶ嶽神社御普請の次第口上書等

平成25年1月

(叶嶽配布資料より)


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