元寇防塁(げんこうぼうるい)

■元寇防塁(げんこうぼうるい)

元寇防塁(げんこうぼうるい) ■元寇防塁(げんこうぼうるい)

 13世紀初め、チンギス・ハンはアジアからヨーロッパにまたがるモンゴル帝国をうちたてました。

 その孫、五代皇帝フビライは、国名を元と改め、日本に使者を送り通交を求めました。

 しかし鎌倉幕府がこれに応じなかったため、1274年博多湾に攻めこみ、その西部に上陸し九州の御家人(ごけにん)たちと激しい戦いをくりひろげました(文永の役(ぶんえいのえき))

 幕府は、元の再度の来襲に備えて、九州各地の御家人に命じて、1276年3月から約半年間で、西は今津から東は香椎まで博多湾の海岸沿い約20kmにわたる石築(いしつい)地(元寇防塁)を築かせ、その場所を警備させました。

 防塁は各国の分担地区によってその構造が違うことが判っています。

 石材は近くの山や海岸などから運び、全体を石で築いたり、前面だけを石で築くなどの工法が採用されています。

 また、防塁の高さは2.5~3mほどと考えられます。

 この今宿地区は、豊前国が分担して、今山の麓から長垂山(ながたれやま)の麓まで約2.2kmにわたり築きました。

 現在、この場所と今山の麓が指定地となっていますが、防塁そのものの調査は行われておらず、その構造はわかっていません。

 1281年、元は再び日本を攻めましたが、この元寇防塁や武士の元船への攻撃にはばまれ、博多の地には上陸できませんでした(弘安の役(こうあんのえき))。

 元寇防塁は、1931年(昭和6年)、国の史跡に指定され、保存されています。

 2000年3月 福岡市教育委員会