「筑前今宿歴史かるた」から今宿の歴史を学ぶ 14

「筑前今宿歴史かるた」から今宿の歴史を学ぶ 14

「筑前今宿歴史かるた」から今宿の歴史を学ぶ 14

「筑前今宿歴史かるた」から今宿の歴史を学ぶ 14

■「筑前今宿歴史かるた」から今宿の歴史を学ぶ 14

 今回は「太閤水」と呼ばれている長垂金毘羅天の入口にある湧き水についてご紹介します。

 昔、周船寺、今宿の人々が博多方面へ行くときに欠かせない道がこの長垂山の峠を超えるルートでした。

 江戸時代に唐津街道の一部として整備されましたが、村の人々は周船寺の旧道から徳永、女原の下を通って今の上町、横町を過ぎ西・東松原を抜け、長垂を越えて生の松原から姪浜に出て博多に行きました。

 これがこの頃の唯一の主な交通路で、特に長垂は峠越えの山道で唐津街道の難所の一つだったようです。

 明治42年に202号線の前身である福岡・前原間の県道ができる前まで、峠越えをする人達でこの山道は賑わっていました。

 また長垂山には昔から湧き水が多く、その湧き水を利用して峠には休憩するための茶屋がありました。

 この湧き水は長垂山の花崗岩の地層を流れる天然のミネラル水で、今宿の人達には、昔から「薬水」と呼ばれ、酒作りや正月の若水にも利用されていました。

 先述の県道ができる前まで、周船寺や今宿の農家の女性達は農産物等を売るためにリヤカーを引き、この峠を越えていました。長垂の峠の手前で待ち合わせをして、お互いにリヤカーを引っ張り、峠越えをしていたそうです。

 郷土史家の大内氏によれば子どもの頃に、近所にこまつ(小松)さんという名の女性が居て、その名の由来は女性の母が臨月で商いに出て途中で産気づき、生の松原にあった小松食堂で生んだため名前が「小松」になった、とのお話も伺いました。

 当時の人達にとってこの道は湧き水(茶屋・食堂)は生活のために欠かせないものだったと分かります。

 この長垂毘沙門天入り口の湧き水がいつの頃からか「太閤水」と呼ばれるようになりました。福岡県には「太閤水」と呼ばれる井戸や湧き水が数か所あります。

 文禄元年(1592)豊臣秀吉(太閤)が号令を発し、文禄・慶長の役と呼ばれる李氏朝鮮・明との戦いのため、肥前名護屋城(佐賀県唐津市)に全国より大名が集結し、ここから朝鮮半島へ次々と出兵しました。

 秀吉自らも名護屋城へ出陣したため、各地に太閤に関わる伝説があります。

 実際に太閤がこの長垂の峠越えのルートを通ったかどうか、この湧き水を飲んだかどうかは定かではありません。

 「薬水」と云われる名水故に後の人に「太閤水」と呼ばれるようになったのかもしれません。

 現在の「太閤水」はその後工事などで水の流れが変わり、飲むには適さなくなりました。しかし、この場所に立つと当時の面影を偲ぶことができます。

(田中)

 

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■今宿タイムズ 第395号 平成27年(2015年)8月1日

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